お侍様 小劇場 〜枝番

   “春宵忘月” (お侍 番外編 87)
 


真冬に逆戻りしたかのような寒風吹きすさぶ日もありの、
何とも落ち着きのない天候不順のせいだろか。
今年の桜は随分と駆け足だったような気がする。
都心の真ん中、それも都市整備の中の一環か、
小さく設けられた公園と緑地帯を縁取る並木があって。
勤め先のオフィスの窓から、
遠い遠い霞雲のように見えていたそれ、
仕事の合間に何とはなしに眺めたことだけが、
今年の花見らしきものとなってしまった勘兵衛としては。
車の通過に撒かれ、
道の上から舞い上がる緋色の残骸へ気づいて、
ふと、それが舞う情景の中に佇む人を想起する。
そんなところなぞ、ここ最近に見た訳じゃあない。
相変わらずに気丈で、笑顔を絶やさぬ存在だというに、
夜陰の中を進む帰途の、あまりに静かな空気がそうさせるのか、

  それとも…?

どこか寂しげな横顔しか思い出されぬことが、
スーツの下、懐ろの深いところをチリチリとつつく。
ここ数日の寒の戻りをそのまま示す、冷ややかな夜の帳
(とばり)は、
何にか迷う杞憂の淵が、もっと深まれと まといついての陰鬱に、
視野の先をも陰らせる。


  ―― お帰りなさいませ


やわらかく灯された明かりの下、
遅くなってしまった御主の帰還を、
いつものように玄関の上がり框に膝をつき、出迎えた彼であり。
うなじにまとめて束ねた金絲の髪には一条の乱れもなかったし、
青玻璃の双眸も柔らかくたわめられ、穏やかこの上なく。
夜着に着替えもせぬのも、風呂上がりの香がせぬのも、
それもまた平生のことなはずが、

 「……、ああ。」

何だろうか、気になる陰を感じてやまぬ。
いたわりとねぎらいの籠もった微笑を、
儚くも淡く滲ませて見せるのもそのせいか。
着替えを手伝い、今宵は冷えるので寝酒でもと、
燗をしていること仄めかすものだから。
否と振り払うことでもなしと、
静かな居間へ足を運べば。
和紙で囲ったルームライトの、黄昏色の明かりが染める空間は、
過ぎることのない心地よさにて暖められており。
それでも寒さを呼ばぬようにと、彼から着せられたもの、
厚めの夜着に重ねたカーディガンの袖口なぞを直しておれば、
品のいい銚子とぐい呑み、木目を生かした優しい風合いの盆に載せ、
楚々と運んで来た七郎次であり。
際立った匂いも立たぬ程度の、程よい燗をつけた手際も絶妙、
さぁさどうぞと酌をして、最初の一口 勧める彼へ。
何と不審も見せぬまま、唯々として従っていた勘兵衛だったが、


  ―― 如何したか


静かな夜陰へことりと、
迷いも戸惑いもなくの整然と置かれた一言へ、

 「…。」

問われた七郎次の側もまた、
常とは異なる何かを抱えた身だと、
示す前に気づかれたこと自体は意外ではなかったか、
眉ひとつ動かしはせなんだけれど。

 「……。」

心なしかその表情がひたりと止まっての それから。
意を決する踏ん切りは要りようだったか、
かすかに肩を上下させると、浅からぬ吐息をついた。
酌をする勝手から、
ソファーに腰掛けた勘兵衛の、
すぐの間近な足元へ膝を揃えて座していた七郎次であり。
ほんの1歩分もない、腕伸ばせば辛うじて届こう空隙を残し、
二人ぎりにて向かい合う主従は。
それぞれなりの思惑染ませた眼差しを、相手へと真っ直ぐに向けており。
無表情なままの勘兵衛へ、
それが怖いかそれとも、話のその後が不安か、
その口を開くのへ、刹那ほどの迷いが見えた七郎次であったのだが、


  ―― お暇間を、いただきたいのです


言って逃げんとするような、か弱い気配も一切なしの。
他でもない自身へと言い聞かせるような、
急くでない くっきりとした言いようをする。
古風なしきたりや行儀を、当たり前の作法として叩き込まれている彼だ。
よって、しばらくの休みをという意味じゃあない。
御主の傍らから永遠に離れること、
それが契りという絆もつ間柄なら、その縁をも絶つことを指しており。

 「……。」

勘兵衛は、だが、聞こえたのだろかと案じるほど、
視線ひとつ動かさない。

 「……。」

濃密な夜陰が、物音のみならず、時間までもを吸うたのか、
互いに一言も発せぬまま、
しんと静かなままの間合いが、どれほどの合を紡いだか。

 「  、…っ。」

不意を突かれたのは七郎次で、
視線を離した覚えはないのに、気がつけばその手首を捕まえられており。
咄嗟に振り払おうと逃げかけて浮いたところを掴まれたのだと、
思考が追いついた頃には既に、
勘兵衛の座すすぐ間際へまでと引き寄せられており。
ハッとし身を竦めた七郎次の、そんな硬直の隙を逃さず、
一気にという強引さで総身ごと引っ張っていったは、おさすがな手際。
ぐいと引かれての、その懐ろへまでと、
引きずり込まれかかったのだけは、何とか腕を突っぱねて免れた七郎次であり。
だって、そうと運べば…この暖かさに掻い込まれてしまったなら、

  せっかくの決意がほどかれてしまう、と

それだけはダメだと、唇を噛みしめ、顔を伏せれば、

 「…七郎次。」

頭上となった側からの声がした。
間違いなく御主の声であり、
激したそれではなかったが、静かすぎても恐ろしい。
こちらの手首を掴んだままな手は一向に緩まぬが、
さりとて強引さは失せており。
じっとしていても、その手からの熱に絆されそうで。
そうと気づいたことで急かされたようなもの、
それでもそおとの静かに顔を上げれば、
(いか)ってはないような、
だが、冷たいほどに無表情なままの勘兵衛と視線が合った。

 「……どういう料簡から言うたのだ?」

何かしらを抱えていそうな予感があったなぞ、
おくびにも出さずに問いかければ、

 「………。」

言いたくはないということか押し黙った青年だったが、
それで済まされるはずもないことも、ようよう判っていたらしく。

  ―― 好きになった人が 出来ました

蚊の鳴くような声とはこのこと。
言葉への乱れこそなかったけれど、
力が籠もらぬ言いようが、いかに自信のない一言かを物語っており。
こんなときまで正直な彼であるのが いっそ哀れと、
ついのこと、目許を細める勘兵衛で。
それが…自分の言いようへの瀬踏みのようにでも見えたのか、

 「本当です。そのお方と添い遂げたくて…っ。」
 「どこの誰と夫婦
(めおと)になると?」

遮ったというよりも聞く耳持たなんだという間合い、
芯の強い声があっさりと、七郎次の声を掻き消してしまう。

 「どうした。市井の女か? それとも男か?」
 「……。」
 「言えぬのか?
  言えば儂が、そやつへ何かしらの手を下すとでも恐れているのか?」
 「…………。」
 「そうさな、それもいいかも知れぬ。半端な覚悟の者へは譲れぬ。」
 「…………。」
 「言わぬのならば、こちらから手当たり次第に捜し回るまでだが?」

故意に底意地の悪そうな態度を装って言えば、
自分が掴んだままの白い手が、
小刻みにふるふると震え出していることへも気づいていたが、
敢えて見ないでいる勘兵衛であり。

 「………。」

ややあって。
壮年の深みのある声で紡がれたのが、

 「なぜ、眸を見ない。」
 「…っ。」

これまでにも、すっかりと忘れた頃合いに、
こんな無体を言い出す七郎次ではあったが。
そのどれも、思い詰めてのことだと裏打ちしてのことだろう、
こちらの眸を真っ直ぐ見据えて来た彼だった。
煮詰まった末の取り乱しでもなければ、
勘兵衛を試してのことでも勿論ない。
彼のように繊細な、人への気配り忘れぬような者にとって、
どれほど辛い艱難辛苦を乗り越えて来た、強い意志持つ身であっても、
あっさりとその膝を折られてしまうよな、
それほど不安定な立場にあるのだという裏返しであり。
彼をそうまで追い詰めたことをこそ思い知りつつ、
ただただ宥めるしかなかった勘兵衛だったが、


  ―― 誰から吹き込まれた?


こたびのこれは、微妙に質が違うと気がついてもいたから。
そんなものへは譲れぬと、
七郎次ではなく、こんなことを言わせた何者かへの、
戦意がついついあらわになった。

 「西隼人の娘か、それとも室生の息女の話か。
  下らぬ取り沙汰、お主へ吹き込んだ者でもおったのだろが。」
 「……っ。」

いつの間にかうつむいていた、そんな七郎次の肩が震えた。
他にも例ならあると挙げかかり、だが、
すんと息つく気配が聞こえ、
片膝だけを座面へ乗り上げていた彼が、
そのまま力なく座り込んだので。
抗う気力だけは萎えたらしいと察し、
今度こそはと懐ろへ取り込む。
丸くなった背中がどれほどの傷心を抱えた彼かを物語り。
頬に触れた耳朶の冷たさは、どれほど心細かったかを伝えてくるようで。


  どうしてこの子は、自分へばかり責めを集めてしまうのかと


そうさせる自分だという自覚が、
やっとのこと浮かんで来ての、喉奥に苦い勘兵衛で。


  当人が語ったにせよ、
  単なる幼子の戯言へどうしてそうまで思い詰める。


確かに、宗家や支家へ嫁げとの使命を負って、
幼き頃からただただ一途にと育てられる、分家筋の娘は多い。
必ずしも一族の中から娶るというしきたりはないけれど、
そのほうが何かと融通も利き、心得もあって頼もしいということから、
推挙してくれる後ろ盾も得やすいとあって、
なかなか絶えることのない旧習であり。
しかも 七郎次には、
自身の母親が一族の本性知って逃げた市井の女だったという、
ある意味での“負い目”があるらしく。
勘兵衛との間に子供を成せぬ同性であることのみならず、
そんな項まで添加した 腹黒いうつけは誰なのか、
詮議はままいつでも出来るから置くとして。
勘兵衛がいつまでも独り身でいるものだから、
そんな候補にと育てられる娘も後を絶たず、
片や、一族の子供らに慕われている七郎次は、
罪のない夢としての将来図、
聞き流せないほど耳にした機会でもあったのだろか。

 「儂の言い分は訊かずか?」
 「わたししか置かぬでは不毛なばかりでしょう?」

絞り出された声音へと、
むうと眉寄せた勘兵衛だったが、

 「たとえ、どこぞかの息女を娶ったとしても、
  だからと言ってそれが誰かへの幸いか?」

拗ねているように見えなくもない、うつむいたままな横顔へ、
懐ろに深々と抱き込めた上での大外から声を掛ければ。

 「……っ。」

それまでの震えとは違った反応、ひくりと肩先が跳ねたのが伝わる。
抱いた手の先、頭の後ろへと手のひら伏せて。
手触りのいい髪を梳いてやりつつ、

 「立場だけなら得られもしよう。娘御の周囲は喜びもしようがの。
  儂が慈しむのも、そんな立場になった肩書をだけのこと。」

え?と聞き返してか、お顔が上がる。
それをも宥めるようにと、手は止めず。

 「心ないままのいたわりしか出来ぬ。
  それのどこが幸いか。
  いつか娘がそれへと気づいたら、最も傷つくのは誰ぞ?」

 「……………。」

ただの場しのぎではなくの、そのくらいは演じ通せる人でもあろう。
憎い訳じゃあないからと、夫婦
(めおと)の振りくらいはしとおせようが、
真の想いは別なところへ捧げたままという、冷えきった日々を貫いて、
結句、聡い娘は気がつくのだ。
夫の心がそこにはないと。
情のない生活もまた、
一族のしかも上つ方のお人らには、
強いられて当然な代物と…よくよく言い含められていたとしても。
勘兵衛自身の人となりとを知ってしまえば、
惹かれてしまうは容易いことで。
一族率いるお生まれとは別なそれ、
その身にまとうた風格や威容は、
匂い立つよな精悍さをより引き立てて。
洗練された所作はなめらかで頼もしく、
かっちりとしたスーツを隙なく着こなす雄々しさは好もしく。
誰もが羨むだろう素晴らしい夫は、だが、
自分ではない別な人を愛してやまぬ。
政略という非情な婚姻と判ってはいても、
最低な男どころか、理想の殿御であるそのお人から、
だのに、好いてはもらえぬ苛酷な生涯。
選りにも選ってそんなお人の最も間近で送らねばならぬと、
気づいてしまったらどうなるか。

 「………そんな仕打ちは惨うございます。」
 「そうは言われてもな。」

儂がどれほど頑迷かは知っておろうがと。
切ない話へ くつくつと笑い出しさえする御主なのが、
憎たらしいやら…愛しいやら。
何とも応じず、だが、逃れようともしない七郎次へ、


 「案ずるな、情のない悪人にされるのは慣れておる。」


年寄り連中だけを喜ばすよな仕儀を構えるよりも、
このままでは死ぬに死ねぬと言わせての、せいぜい寿命を延ばさせてやろうぞと、
物騒な言いようまで並べたの、

 「……。」

今度は素早く顔上げて来たので、さすがに窘めるのかと思いきや、


  「わたしも同罪ですから。」


身を引くとはもう言わない。
どこまでも逃げず、いつまでもしがみついてゆこうと決めたお顔が、
不貞々々しい“共犯者”を見上げて来たと判る。
そんな供連れへ“さようか”と短く告げ、
細い顎を掬い上げると、
何かの誓いのように緋色の唇盗み取る宗主であり。
彼らの互いの胸のうちにか、
はたまた、窓の向こうのどこかの遠く、
皓々とした月に照らされながら散華する、
威容あふるる花王が佇むのだろ、
ひときわ冷たい晩春の宵のことである。



   〜Fine〜  10.04.16.


  *こんな男へ添い遂げられる者なぞそうはおらぬと、
   酔狂な奴よと微笑うこととてあったでしょうほどに。
   そこいらの覚悟がシチさんへも出来てのこと、
   もはやこのネタは使わぬだろなと思ったものの。
   桜の散る凄艶な風情を眺めてて、何かが降りて来たらしいです。
   すいません、もうしません。
   勘兵衛様もシチさんも、どうかご容赦くださいませ。


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